土門拳の『ヒロシマ』−戦後70年を迎えて

 私が初めて土門拳の名前を聞いたのは高校一年のときだった。国語の教科書に『死ぬことと生きること』が載っていた。

『死ぬことと生きること』(土門拳築地書館)

 修学旅行で見た薄暗がりの奈良の仏像より、土門拳の『古寺巡礼』で鬼気と迫る仏像の表情に惹きつけられた。

昭和偉人伝「土門拳」(BS朝日)より

 1983年、山形県酒田市土門拳記念館ができ、ある日ふと電車に乗って見に行ったのが26年前になる。当時まだ新幹線はなく、新潟から羽越本線を乗り継いでの長旅だった。

 原爆を中心とする戦争被災体験についての写真家の大きな共感は、1958年に刊行された土門拳の『ヒロシマ』(研光社)に端的に表現されている。土門は前年7月に『週刊新潮』8月12日号「原爆の遺産ABCC(原爆障害調査委員会)」の取材で初めてヒロシマを訪れた。それまでは、数十年は残るといわれていた放射能汚染を恐れていた。ところが、一度赴くと「使命感みたいなものに駆りたてられ」取材を続け、翌年には写真集『ヒロシマ』にまとめ上げた。そこには、生々しい皮膚の移植術のクローズアップや、原爆症で死にゆく少年の姿など、徹底して被爆者の悲惨を凝視した写真が収録され、土門リアリズムの頂点とされる記念碑的な作品となった。
『時代をつくった写真、時代がつくった写真』(鳥原学/日本写真企画)

写真集『ヒロシマ』(土門拳小学館
その意味において、広島・長崎の被爆者は、ぼくたち一般国民の、いわば不運な「身代わり」だったのである。ぼくたち一般国民こそ、今、この不幸な犠牲者に対して温かい理解といたわりを報いることによって「連帯感」を実証すべき責任があるはずである。
はじめてのヒロシマ土門拳

日経スペシャ私の履歴書 写真家・土門拳BSジャパン
 土門にとっては古仏に取り組むことと、『ヒロシマ』のような社会問題に向き合うことは、日本民族と時代の接点を見るという点で違いがなかった。
『時代をつくった写真、時代がつくった写真』(鳥原学/日本写真企画)

実は長崎でも広島でも、戦後七十年を迎えて、被爆者の高齢化がすすみ、亡くなる人が急増している。被爆者団体が解散せざるをえなくなったり、被爆者の体験を聞こうにも、体験を語ってくれる人がいなくなったりという事態が起きている。
被爆者なき時代・立花隆文芸春秋 2015年3月号 )

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